ティムール朝の国制については不明なところが多く、現実にティムール以下歴代の君主が確固たる行政上の制度を定めたこともなかったと考えられる。特にティムールの時代には、ティムールの息子たち、腹心の部下たち、彼らに従う遊牧民たちが分封されてカリスマ的な軍事指導者であるティムールの権威に服していたため、ティムールの没後には容易に分裂に向かってしまうものであった。
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君主の支配を固める論理として、モンゴルの伝統とイスラムの伝統という二つの要素が存在したことは確かである。いまだモンゴル帝国の影響がよく残っていたティムールの時代にはモンゴルの伝統が特に強調され、ティムール朝の君主とは別に、チンギス・ハーンの血を引く王子たちの中から名目上のハンが擁立されるとともに、ティムール家の王子は名目上のハンやモグーリスタンのハンなどの様々なチンギス・ハーンの血を引く王家から王女を妻として迎え、ティムール家の君主はチンギス王家の娘婿にして最高位の将軍という立場から支配権の正統性を認めさせていた。このためティムールの孫の世代からは母をチンギス・ハーン家の王女とする者も少なくなく、ムガル帝国を開いたバーブルもそのひとりである。このチンギス王家の娘婿という主張はティムール朝の君主に一般的なものであるが、これに対し、シャー・ルフはイスラム的な伝統、すなわちイスラム法(シャリーア)に基づいた公正な統治者としての君主像を協調していたといわれ、アブー=サイードとその子孫のサマルカンド政権はナクシュバンディー教団の宗教的権威に頼っていたと指摘されている。
政権を支えた支配階層は、セルジューク朝以来のイラン高原の遊牧イスラム政権と同様に、ターズィーク(タジク)と呼ばれるペルシア系定住民出身の行政官僚たちと、テュルク系遊牧民の部族長(遊牧貴族)たちからなる将軍・軍人たちからなっていた。ティムール朝はあくまでもモンゴル帝国の伝統から起っているので概して遊牧貴族の地位が高くとられていたが、モンゴル帝国期には遊牧貴族の地位を示す称号であったアミール(将軍)がターズィークの高官に授けられた称号になっている例が存在することが指摘されており、ティムール朝の時代には遊牧民と定住民の生活や文化の一体化が進み、定住民の政権における地位が向上していた可能性が高い。
経済的には遊牧国家の伝統にのっとって通商政策を重視した。特にティムール朝はモンゴル帝国の遊牧民の中でも、とくに都市生活に馴染んだ西チャガタイ・ハン国の「チャガタイ人」が興した政権であったため、通商基地として重要な都市の整備をきわめて積極的に行った。王朝の多くの時代において首都であったサマルカンドはティムールの時代から大征服によって各地から略奪されてきた富が集積され、盛んな建築事業が推進されて世界でも屈指の大都市として発展した。
ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら都市の優れた文化を理解していたので、首都サマルカンドを始め王族たちが駐留した各都市では盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いた。とくに、自身が数学、医学、天文学などに通じた学者でもあったティムールの孫ウルグ・ベクがサマルカンド知事時代に行った文化事業は名高く、彼がサマルカンド郊外に建設したウルグ・ベク天文台では当時世界最高水準の天文表が作成されていた。また、都市には優れた宗教・教育施設が建設され、サマルカンドのグーリ・アミール廟、ビビ・ハヌム、ウルグ・ベクのマドラサ(イスラム学院)や、現在のカザフスタン南部トルキスタン市のアフマド・ヤサヴィー廟などが名高い。
しかしこのように都市文化に親しみ都市の建築に力を注いだティムール朝の君主たちも一方では遊牧民の末裔であって、都市の中の窮屈な宮殿よりも都市の周辺に設けた広大な庭園の中でくつろぐことを好んだ。こうして大小さまざまな庭園が建設されたが、サマルカンドのそれはこの町で生まれ育ったバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』において詳細に描かれ、その見事なさまが今日に伝えられている。
このようにティムール朝の時代に栄えた中央アジアの宮廷文化が頂点に達したのが、15世紀後半のヘラート政権のスルタン・フサインの宮廷においてであった。ヘラートの宮廷では、モンゴル時代のイランで中国絵画の影響を受けて発達した細密画(ミニアチュール)の技術が移植され、芸術的にさらに高い水準に達した。フサインや、その寵臣で宰相を長く務めた有力アミールのアリー・シール・ナヴァーイーはいずれも優れた文化人で、彼らの文芸保護によって文学が繁栄した。当時の中央アジアでは文化語はペルシア語であったが、ナヴァーイーらは当時テュルク語にペルシア語の語彙と修辞法を加えて洗練された「チャガタイ語」を用いた文芸、詩作をも好んで行い、ティムール朝のもとでチャガタイ語をアラビア語やペルシア語と比肩しうるレベルまで文学的な地位を向上させた。チャガタイ語散文文学のひとつの頂点を示すのが、先にも触れたティムール朝の王子バーブルの著書『バーブル・ナーマ』である。
ティムール朝では王朝側による修史事業もまた盛んに行われた。シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記である二種類の『勝利の書』が著されたのを初めとして、シャー・ルフの時代にはティムール朝はチャガタイ・ウルスの後継国家としての意識が一段と顕著になった。シャー・ルフは歴史家ハーフェズ・アブルーらに『集史』をはじめとするイルハン朝時代からの歴史情報の諸資料の総括を命じ、あわせて『集史』自体もモンゴル帝国におけるバルラス部族とチンギス・ハン家の関係を強調したかたちに再編集させたバージョンを作成させている。この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者ムハンマドとの血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれた。この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったがティムール朝ではより鮮明にされるようになった。この影響は後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれていく。またこれらシャー・ルフ治世下のヘラートでの修史事業の伝統は、スルタン・フサインの治世にナヴァーイーの保護下で世界的な通史である『清浄園』を著したミールホーンドや、その外孫でバーブルに仕えた『伝記の伴侶』の著者ホーンダミールなどを輩出している。
これらの高い文化の影響は、ティムール朝の中央アジア領をそのまま引き継いだシャイバーン朝のみならず、西のサファヴィー朝、南のムガル帝国にまで及んだ。こうしてティムール朝の滅亡後も、東方イスラム世界と呼ばれる一帯の文化圏で優れたイスラム文化が続いてゆく。また、ティムール朝時代の進んだ文学や科学が言語を同じくするアナトリアのトルコ人たちの間にもたらされたことが、当時勃興の途上にあったオスマン帝国の文化に与えた影響は大きい。
こうしたティムール帝国で形成され花開いたイスラーム文化を特にトルコ=イスラーム文化という。